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​青を憂う

いつも部屋には青い光がさしていたのを覚えている。今よりずっと昔の、僕がまだ、もっとずっと底の方にいた頃の話だ。

双子の弟のヨウの部屋の窓からは、庭一面に広がるミズハコベが見え、葉の先の泡に反射する光が部屋の中にまで届いて、いつも明るく、あたたかだった。窓の前に茂るオオカナダモのせいで日当りが悪く、いつも仄暗い部屋で過ごしていた僕は、それがとても羨ましくて、遊びにいくたび部屋の交換をねだったものだ。

一度だけ、こっそりミズハコベを一房、土から引き抜いて頂戴したことがある。

こいつならきっと僕の部屋にきらきらとした光をふりまいてくれる。そう期待して部屋に持ち帰ると、青々としていたはずのミズハコベはたちまち部屋に漂うどんよりとした藍色に隠れてしまい、僕の掌からふわふわ漂って、床にぽてりと着地した。

そのことが酷く恨めしくて、僕は結局その日のうちにそれを街に浮かんでいた鯉にやってしまったのである。

鯉はしばらく自分の目の前をただよう緑色を不機嫌そうに見つめた後、口をつい、とのばして一口に平らげた。

錦に消えた緑を思ってなぜか少し悲しくなった僕は、今しがた葉を沈めたばかりのその腹のうろこをなぞるように、水の流れに沿って、そっと鯉に触れた。

それからしばらくして、僕は大嫌いな部屋に別れを告げた。

藻も茹だるような、深い夏のことだった。

 

 

 *

 

ぽーう、と、幽かに聴こえる汽笛の音で目が覚める。ベッドの隙間からカーテンを開けると、丁度横切っていった小魚の群れに太陽が反射して目がやられた。そのままの勢いに寝返って、枕に顔を押し付ける。

暦の上ではまだ八月の終わりだと言うのに今日は少し肌寒い。

こちらへ越してきてからというもの、午前七時の汽笛は、僕ら双子の起床の合図だった。

こんな風に目を覚ますと、二段ベッドの上から、布団の擦れる音と共にヨウが顔を出して、眠そうな目をゆるりと細めて、おはよう、と言う。その声を聞いてから僕はようやく目をあけて、小さな声で、おはようと返す。

なんだか気恥ずかしくて、けれど幸せな誰かと過ごす朝の時間は、高校生になって、ヨウが部活に入ったことで欠けてしまった。部活に誘われたんだ。体験だけの、つもりだったのだけど。朝も、練習があるらしくて。

バレー部。チームメイトとの協力が不可欠なその競技は、温厚で、明るくて、その日だまりのような雰囲気で人を惹き付けるヨウにはぴったりだと思った。

入部開始日の翌日、僕の目を窺うようにのぞいてきたヨウの目は、隠しきれない青春への期待と希望がその薄い栗色から透けてきらきら光ってみえた。

いいんじゃない。きっとお前、うまくやれるよ。

眩しい瞳になんだか居心地が悪くなって、僕はそう一言返したきり、すぐに部屋へ引っ込んだ。

どこか気の抜けた兄と、温厚でしっかりした弟。まるで入る体を間違えたみたいだと、昔からよく言われていた。

成長して、僕ら二人の世界が広がるにつれ、ヨウの世界を僕が狭めているのではないかという不安はあった。彼は僕とは違って、もっともっと、広くて、明るい場所が似合う。けれどヨウの隣はとても居心地が良くて、僕はずるずると彼の手を握ったまま成長してきてしまった。

いい機会だ。僕らにはそろそろ、ふたりでなく、『ひとり』と『ひとり』になることが必要だ。

そう思うのに、ヨウのおはよう、が聞こえない朝は、いつもどこか仄暗かった。淡々と身支度を済ませて時間を確認する。

僕は、もう、ひとりでも遅刻することはない。

 

 

   *

 

僕らの世界はあと数年で廃棄されるらしい。そう伝え聞いたのはもう十年も前になる。穏やかだった潮の流れはここ五十年ほど不安定なのだそうで、時折民家をまるごと攫ってしまうくらいに荒れるし、過ごしやすく、一年を通して暖かだった気温も年々冷え込んできている。

何かが起きている。そしてその何かは、世界にとってはごく自然な変化であり、人が生きて死ぬように、長い時間をかけて回るひとつのサイクルの一部であった。

   人間は当然、これに抗い、この街に留まり続けるより、この異変の影響がない未開の地へ移住することを選んだ。即ち、地上へあがるということだ。

   地上への移住計画が実行されたのは案が出てからほとんどすぐだった。というのも、地上に送られた調査団からの報告は素早く、その内容が、「危険ナシ、気候温暖、自然実ニ豊カ、快適ナリ」であったためだ。

   ただ、一度地上にあがってしまうと、身体がその環境に適応し変化してしまって、こちらへは戻ってこられないらしく、調査団と街とのやりとりは主に通信で行われた。

   街はより地上に近い地域から順に、一から五までの数字が当てられ、これらはまとめて新都と呼ばれるようになった。新都の第五層より下は旧都と呼ばれ、新都から電車が一本通ってはいるものの、今ではほとんど人が住んでおらず、ゴーストタウンと化している。

   第一層の住人が地上へ、二層の住人が一層へ、三層が二層へ…と順繰りに人が減っていくなか、旧都、<鄙町>に住んでいた僕らも、この話を聞いてすぐに、いよいよ第五層へ移ることとなった。

   移住計画は今、最終段階にある。最後の第一層住人である僕らもいよいよ次の春までに、この地を捨て、眩い地上へとうつるのだ。

 

 

   *

 

   午前中で学校を終え、部活が休みだと言うヨウと共に、久々に二人で帰りの汽車へ乗り込んだ。

   街を巡る環状線はきらきらと光を受けて、白昼夢を泳ぐ魚のように回ってゆく。開け放たれた車窓は小さな魚たちの通り道となり、ゆるい空気が頬を撫でていく。

   まるで洞穴のようだと、車窓から下を見下ろして思った。ぐるぐると、螺旋を描いて回る汽車の軌跡の真ん中を貫いて光が舞う。底に近づくほどに水の色は暗く、冷たくなり、時折魚の鱗がちらりと光る以外は、ただ沈黙を守っている。

   いつも、部屋には青い光がさしていたのを覚えている。

   新都に越してきてからというもの、ヨウと過ごすあたたかい部屋が僕は甚く気に入っていた。休みの日などは外に出ることも惜しんで、ただただ部屋に降り注ぐ太陽の光の下でまどろんでいたくらいだ。

   環境は良好、家族仲も悪くない。それなのに、ふとした瞬間、僕は青い記憶の中に引き戻される。目の前にはたしかに暖かい日差しが射しているのに、まるでガラスで仕切られたように現実感がなく、ただ僕の精神だけがあの忌むべき青に捕らえられているのである。その鈍い青色は、いよいよ陸へあがる日が近づくほどに、僕の目のはしを頻繁にちらつくようになった。

   汽車は水を割いて走り続ける。

「なんか久々だな」

「そうかな…そうだね」

   休み明けの授業で疲れたのだろう、僕の隣で船を漕いでいたヨウは、僕の言葉を聞いて目を擦ってから、昔の朝のように、柔らかく微笑んだ。

   ああ、なんだかとても懐かしい。

   今目に見えている風景が、こんなふうにどんどん懐かしくなっていって、そのうち、その鮮やかさを忘れてしまう。そんなふうに、僕らはこれから先も、変わっていくのだろう。        この街は僕にとっての猶予期間だ。怒濤の変化の渦に足を踏み入れる、一歩手前の、白昼夢のようなところ。

「ぼくら、どうして地上へいくのだろう」

   僕の口からこぼれた、答えのわかり切った問いに、少しだけ目をみはって、とてもはっきりとヨウは応えた。

「生きていくためだよ」

   その声音があまりに真剣で、僕は思わずはっとした。ヨウはそんな僕を横目に、欠伸をひとつはさんでから、いつものふにゃりとした声で、こう付け加えた。

「それから…そう、ここにはもう、なにもないんだって」

   自信なさげにさがった眉と細められた栗色の瞳は、ヨウ自身がその言葉に納得いっていないことを物語っていた。

   ここにはなにもない。確かに、ここに未来はない。底からゆっくりと押し寄せてくる冷たい潮は、もうすぐこの暖かい光をも呑み込んでしまうのだろう。

   日が陰って、車内が一瞬暗くなる。変にあいてしまった間に、何を思ったのか僕はこう口走っていた。

「なあ、鄙町に行ってみないか?」

 

 

   *

 

   旧都、<鄙町>へは第五層から乗り換えて二時間ほどだった。

   今日の昼間は比較的暖かな気温のはずなのに、駅へ降り立った瞬間総立ちした鳥肌に、なにか羽織る物を持ってくるべきだったと後悔する。

「思ったよりも潮、荒れてないね」

   なんだかそわそわしているヨウを連れて、とりあえず改札を出る。駅は無人で、壊れた電光掲示板が、意味をなさない文字列をくるくる回していた。

「運が良かったな。今日は警報も出ていないみたいだし」

   上からのぞいたときはあんなに暗かったのに、実際降り立って見るとこちらもそれなりに良い天気だった。

   少しでも暖をとろうと日向を歩きながら、あちこちに視線を巡らせると、巻き上げられた砂をかぶっていかにも廃墟然とする駅舎の外観と、脳みその奥にこびりついた景色がレントゲン写真のように合わさって、懐かしいような、知らない場所のような、不思議な気分にさせられる。

   駅を出てすぐの商店街にも、もちろん人の気配はない。耳が痛くなるような無音の中、時折舞い上がる砂だけが、僕たちがきちんと進んでいく時間の中にいることを証明してくれる。しかし、軒を連ねる商店は不思議と色あせず、まるで、鮮やかな瞬間の中に閉じ込められたまま、時を止めているようだった。

   アーケードを抜け、坂をひとつ下ると、昔通っていた小学校が見える。記憶の中では薄いクリーム色をしている校舎は、いたるところに藻がこびりついているようで、全体的に緑がかっていて、どこか神社のような荘厳さを放っていた。

   学校の前を横切って、また坂をのぼる。立ちはだかるような急な傾斜の一本道の先が、僕らの昔の住処だ。

 

   長い間使われることのなかった引き戸は錠が壊れ、ひどく滑りが悪くなっていて、二人掛かりでがたがた揺らしてなんとか開けることができた。

「た…」

   ただいま、と言いそうになって、咳で誤摩化しながら足を踏み入れる。

「わ…!」

   律儀に靴を脱ごうと式台に腰掛けたヨウの足の間を、大きめの鯉がぬるりと通り抜けた。声に驚いたのか一瞬左右にゆらゆらと揺れた後、錦色の鱗をきらきらと光らせ、むっつりした顔のまま玄関から出て行く。

「そりゃ魚も住むようになるよね…」

   ヨウはどこかうきうきしながら廊下を早足で進む。その反動で、どこから入ってきたのか、家の中に溜まっていた砂がぶわっと舞い上がり、たまらず顔を背けながらヨウに続いた。

「ただでさえボロ屋なんだから、床が抜けないように気をつけろよ」

   そんなことを言いながら、僕の頭はさっきの鯉の錦色でいっぱいだった。光る鱗は小学校を覆う藻の色と重なって、記憶をありありと引っぱりだしてくる。

   ああそうだ、自室へ行こう。ぎしぎしと軋む床を労りながら一階の隅へと進む。階段をのぼる音がしたから、ヨウもきっと自室を懐かしみに二階へあがったのだろう。

   少しだけ緊張して錆びたドアノブをにぎり、手前に引いた瞬間、懐かしい数々の記憶と共に、夥しい数の小魚が僕の頭めがけて飛び込んできた。

   思わずあげた悲鳴に反応して降りてきたヨウに無事を伝え、仕切り直して部屋へ踏み込む。どうやら主の長い不在に堪え兼ねて、すでに新しい主を迎えていたらしい。部屋は何種類かの魚の住処と化していた。奥へ進むと、魚の群れがざっとわれて、昔のままの青い部屋が姿を表す。

   あまり好きではなかったはずの部屋なのに、不思議と気分は悪くなかった。

   足下に魚がいないことを確認してから、床にそっと腰をおろして、窓の外のオオカナダモを眺める。昔よりも背が伸びて、部屋自体は小さく感じたにも関わらず、窓の外の圧迫感は幼い頃と変わらなかった。

   ゆらり、ゆらりと、大儀そうにゆっくりと体を揺らす葉を眺めていると、今にも体を絡めとられて、その生茂る緑の中に取り込まれてしまいそうな気がしてくる。中は暖かいのだろうか、それとも寒いのだろうか。葉先があたるとくすぐったそうだな…。

   知らないうちにあがっていた口角に、この青く暗い部屋の中に懐かしさと同時に、どこか安心のようなものを感じていることに気づく。

   新都にいるときの、浮き足立つような焦燥感はもうなかった。上の階から、ベッドのスプリングの軋む音が聞こえる。そっと目を閉じて、ヨウの部屋の明るい陽射しを思い浮かべた。

   まだ、もう少しだけ。ヨウが呼びにくるまで、こうしていよう。僕がここに忘れてきたなにかが、浮かんできそうな気がするから。

 

 

 *

 

   季節はほんとうに、あっと口を開ける間もなく過ぎていった。年が明けて、だらだらとしているうちに一月が過ぎ、二月になり、いよいよ明日、この街の移住計画は完了する。

   街はそわそわとした空気をただよわせ、もう随分な時間だというのに、あちこちから賑やかな話し声がする。僕らの家にも、ご近所さんが何人か居間に集まって、いつまででも積もる話を切り崩しては積んで、最後の夜を楽しんでいた。

   地上への汽車は明日の朝、七時と十時に分けて出る。街の住人の多くは、きっとこのまま朝まで起きているのだろう。かくいう僕も今日は眠れそうになかった。

   ベッドの中で時計の針が二時を越えたのを確認して、そうっと布団を剥いで抜け出る。荷造りはもう済ませてあるし、今日くらいは、深夜徘徊を咎める人はいないだろう。用意していたジャケットを羽織って窓に足をかけると、ヨウが何故かコートを着た状態でベッドから降りてきた。

「僕も行く」

 

   夜の鄙町は、上の賑やかさが嘘のように静まりかえっていた。けれどその静けさは、身を竦めるような居心地の悪いものではなく、夏の夕方、窓辺でまどろんでいる時のような、甘く緩やかな静寂だった。

   物の輪郭がかろうじてわかるような暗闇の中で時折、ウミホタルが粉雪のようにゆっくりと舞い降りてくる。目のはしを何かがきらりと光った気がしてよく見てみれば、鮮やかな鯉が、ゆらゆらと尾を揺らして僕たちを先導していく。

   鯉なんてたくさんいるだろうし、暗がりでその全体はよく見えないのに、当然のように玄関の框の影に身を沿わせた姿を見て、あぁ、あの時の奴だとピンときた。

   彼らはこの先どうするのだろう。僕ら人間がいなくなっても、ゆるりとその変化を受け入れ、街と共に消えていくのだろうか。それとも、地上へ出ることの他に、この深く暗い底で生きていく術を知っているのだろうか。

   部屋は前に来たときよりも暗く、深い藍色に染まっていた。新しい住人である魚たちは、くるくると部屋の中を旋回している。ヨウは僕の後ろに続いて部屋に入ると、青い光を舐めるように、ゆっくりと瞬きした後、

「ぼくね、この青、好きだよ」

   と、小さな声で呟いた。それから、窓際に慎重に腰を下ろし、寄ってきた魚に頬ずりして、顔をこちらへ向ける。

   色素の薄いその瞳は、柔らかく、陽射しのように僕を射抜く。

「ちょっと暗いけどさ。体の中にそうっと、染み込んでくるみたいで、ずっと、背中によりそってくれているみたいで」

   ヨウの隣に腰をおろして、ゆっくりと瞼を閉じる。きらきらと明るいヨウの部屋のあたたかさと、自分の中にずっと根付いていたこの部屋の青さが重なって、羊水につつまれるような安心感と、言い表せない愛おしさが喉の奥からこみ上げてくる。

   僕が明るい場所へ上っていくために足りなかったものが、ようやく見つけられた。

 

 

   *

 

   いろんなものが変わっていく。ヨウと一緒に起きる朝はもうこないし、ふたりだった僕らはひとりひとりに分たれていく。ヨウを介して触れたあの暖かい光は、地上の眩さの中では霞んで消えてしまうだろう。

   生きていくための、白々しいほどの明るさの中で、目を開けていることに疲れてしまったら、僕はきっと、瞼の裏にこの青をみる。

   仄暗くて、陰気くさくて、けれど、僕の中にもともとあった、深い青に、帰ってくる。

 

   ぽーう、と、遠くから、汽笛の音がする。いつの間にか寝てしまっていたようだ。瞼を閉じたままカーテンを開けようとして、鄙町に来ていたことを思い出す。

   引っ込めようとした手が暖かいものに触れて、くすり、とかすかに笑みがもれた。

「おはよう」

   ヨウの声にゆっくりと目をあけて、眠そうな顔にまた笑う。

「おはよう」

   最後の朝は、なんだか懐かしい目覚めだった。

   さっきのはおそらく七時の汽笛だろう。今から新都に帰れば、十時の汽車には充分間に合う。先に部屋を出たヨウに続いて、ドアノブに手をかけ、今度は魚たちをおどろかせないように、ゆっくりと開ける。

   そのまま部屋から出ようとした僕の足を、ゆるやかな光が引き止めた。

   散らばった淡い光をたどるように振り返って、目を凝らすと、窓の外のオオカナダモが、たくさんの白い花を咲かせていた。

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2014 九九囲

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